コンドーテック株式会社 〜Professionals for Owners オーナーを支えるプロフェッショナルたち~
組み立ての町工場からスタート。
父の代でビジネスチャンスをつかむ
建設資材をはじめとする多様な製商品の製造・販売を行うコンドーテック株式会社。
メーカー機能と商社機能を持ち合わせ、約5万点ものアイテムを取り扱っています。
また、東証1部に上場し、設立以来、経常利益ベースの赤字は一度もない(変則決算除く)という優良企業でもあります。
同社の近藤勝彦代表取締役社長に、会社の沿革から経営のモットー、さらに今後のビジョンまで伺いました。
聞き手:芦田 敏之(税理士法人ネイチャー国際資産税 代表)
まずは御社の成り立ちについてお聞かせください。
弊社の発祥の地は大阪です。
少し遡って16世紀末頃の話になりますが、陸路よりも水路が有利だと考えた豊臣秀吉が、大坂(大阪)の町に運河を作りました。
そして、水運には輸送船が必要だということで、大阪では造船業が栄えてきました。
私の祖父は、その大阪で、船の資材を扱う店で丁稚奉公をしていました。
そして、1947年に独立して始めたのが、船に使う部品の組み立て業です。
船のロープを留めるワイヤクリップという部品の組み立てが最初だったと聞いています。
会社を創業した祖父が亡くなり父の代になった当初は、組み立て工場を持っていたものの、社員数10人くらいの家内工業でした。
ただ、父が貪欲な商売人というかチャレンジ精神が旺盛な人で、製造する製品数をどんどん増やしていき、東京にも工場を作りました。
ちょうど、朝鮮動乱などがあり景気が上向いてきた時期だったこともあり、ビジネスは順調に拡大していきました。
会社が大きくなった契機はありましたか。
1966年に九州工場を開設して工場機能を集約したことが、メーカーとしての契機となりました。
当時は、足場吊りチェーンやターンバックルが主力商材だったのですが、とくにターンバックルは用途が幅広く、需要が増加していきました。
もっとも多いのが、建物の強度を上げるための筋交いに使われるケースです。
1985年には、ターンバックルで業界初となる日本工業規格(JIS規格)を取得しました。
その後、日本はいくつかの大きな地震を経験し、耐震のためにJIS規格の資材を使うことが義務付けられたので、当初は予想していなかったかたちでターンバックルの売れ行きが伸びることになりました。
工場で製品の開発・生産を進める一方で、拠点の展開も進めていきました。
それには理由がありました。ターンバックルブレースという長い筋交いは、長いがゆえに宅配便では送れず、トラックで輸送するしかありませんでした。
しかも、受注生産品で短納期のケースが多く、たかだか10本の納品のためにトラックをチャーターしていては、運送費が高くつきすぎてビジネスになりませんでした。
安く運べる手段を検討した結果、全国に拠点を増やそうということになったのです。
今では全国40店舗以上になり、高額な運送費をかけることなく全国隅々まで納品できるようになりました。
これは、他社との差別化という点で、大きな意義のあることでした。
当時父は、最初から現在の姿をイメージしていたわけではなかったと思います。
目の前の課題を一つずつ解決していった結果、たどり着いたのでしょう。
気づけばそれが、コンドーテックの強みになっていました。